自分で選択する力

スクールソーシャルワーカーだより スクールソーシャルワーカーだより

2015年10月号

私たちは、子どもたちの「自分選択する力」を育ててやっているでしょうか?

外国の方は、時に私たち日本人が見過ごしにしているような事柄(それが良いものでも悪いものでも)に注目し、それを改めて再認識させてくださることがあります。

自分で選択させる

日本で暮らす外国籍のお母さんが書いた、自国と日本の教育を比較した文章を読みました。この方は、お子さんにサッカーを習わせていますが、子どもたちがコーチの言うことを聞こうとしない自国のクラブと、コーチの指示に忠実な日本のクラブの違いを比較して、こんなふうにおっしゃっています。

日本人は、小さいころから選ぶ権利を子ども自身に与え、選んだ結果の責任を子ども自身に負わせる。選択が間違っていたら後悔することになるから、選ぶということは簡単にできることではない。

そのため日本の子どもは小さいころから、限りある資源を利用して最大の利益を得ることを知っている。サッカーの練習も同じだ。日本人の子どもはコーチの話を聞いてから練習した方が、自分で勝手にボールを蹴るよりもおもしろいと知っているのである。

日本の小学校でも、授業で話を聞かない子どもは少なくない。だがグラウンドでコーチの話を聞かない子どもはほとんどいない。理由は簡単である。学校の勉強は義務だが、サッカーの練習は自分で選んだことだからだ。

日本の育児書もそのように保護者に教えている。子どもを連れておもちゃを買うとすれば、保護者は2つか3つの候補を選んでもいいが、最後は子どもに選ばせる。小さい頃から自分で選ぶ習慣を身につけさせるためである。

息子が最初に自分で「選択」をしたのは3カ月のときだった。息子を連れて日本の病院に予防注射を打ちに行った時のことだった。注射を終えた医師は、大声で泣く息子のために、キャラクターの絵の入った2枚の絆創膏を取り出した。両手で2枚とも取ろうとする息子に、医師は辛抱強く、1枚だけだと言って聞かせた。息子はそれを理解したようで、少し迷ってから1枚を選んだ。この小児科医師がこうしたのは、実際には保護者の私に見せ、保護者を教育するためだったと考えられる。

日本人がこうしたしつけをするのは、小さいころから選択の余地を子どもに与えなければ、子どもが自分は本当は何が必要で、何をしたくて、何に興味があるのかがわからなくなってしまうからなのである。

(人民網日本語版より)

我々は本当に子どもの選択する力を育てているでしょうか

こんな文章を読むと、なんだか面はゆい感じがします。それに、「最近の新人は、言われた仕事しかできない」「自ら判断して、仕事を広げようとしない」「ちょっと壁にぶつかるとあきらめてしまい、どうしたら解決できるだろうかと自ら考えようとしない」と嘆く企業関係者の声も聞きます。

この外国出身のお母さんの感銘の通り、私たちは子どもたちの選択力を育てるような関わりをしてきたでしょうか。

制限の中での選択

とはいえ、「何でもOK、好きなようにしなさい」という育て方も問題があります。人は他の人と共に生きているわけですから、社会的なルールとかマナーとかは守らないと、結局幸せにはなれません。わがまま放題で生きていると、その時はいいですが、そのうち誰からも相手にされなくなったり、攻撃を受けたりするようになるからです。

ですから、子どもが小さいうちは、しっかりと「型」を身につけさせることが大事です。ルールを守ること、時間を守ること、あいさつ、敬語、テーブルマナー、困ったときの援助の求め方、迷惑を被ったときの抗議の仕方などです。自分で自分の行動の責任をすべて取れるようになるまでは、保護責任者である大人が制限を設けることが必要です。もちろん、中学生にも。

ただ、その制限の中で、できるだけ選択の自由も与えていかなければなりません。

「制限の中の選択」の例

知り合いの家庭には、「食事中は泣かない」というルールがあります。みんなで楽しく食事をするためです。ところが、3歳の末っ子が嫌いな野菜が出ました。さっそく泣き出した末っ子に、お父さんは穏やかに尋ねました。

パパ
パパ

別の部屋で泣く? それとも泣き止んで食べる?

食事中は泣かないというルールは曲げず、その範囲の中で、泣くか泣き止むかの選択権を与えたわけです。

いろいろ工夫しながら、上手に子どもたちの選択力を磨いてやりたいですね。

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